人生反省記Vol.2

馬鹿は馬鹿なりに。http://blogs.yahoo.co.jp/imutan813

忘備録

「事実」あるいは「現実」というのは、その事柄を含む映像、触感、匂い、音、時間でできた非常に曖昧な空間のようなもので、それらのただ一つがかけていても「事実」や「現実」とは厳密には言えない。

更に、そこにいる登場人物になってしまった時点でその空間を第三者的に見ることは出来ない。つまり、「事実」という空間を正確に第三者的に眺める手段というのは、あたかも世にいくつも転がっているように見えて一つもないのだ。

 

自分の頭の中にそういう考えが前から漠然とあって、言葉に表すことがうまく出来なかったのだけれど、ふと文字に起こせるくらいになったので忘れないうちに書いておこう。

何故この考えを記しておきたいと思うに至ったかと言えば、この考えが自分の中で一つの大きな観念として持てていると、自分の理想とする心に近づけると思ったからである。文才がないのでうまく表現できないが、もやもやとした頭の中を素直に文字に起こすと、こんな感じだ。

これがどんな風に活きるのかという点についても、漠然とこういう場合という例は思い浮かぶのだけれど、文字に起こすまで説得力のあるものにはならない。ただ、ここ数年、あるいは人生23年間を生きてきて、色々な経験をそれなりにしてきて、幾たびもこの考えにぶち当たった事は間違いない。

 

ここからは俗っぽく全く上の内容とは関係ないことになる。

私は、モノを考えてから行動するよりも、行動してからモノを考えることが多い(頭の悪い人間の典型例と言えばそう)。それには後付けかもしれないけれど一応の理由はあって、モノをいくら考えても、自分が考えるそのモノは自分が考えるその物事に過ぎないので事実や現実とは同じにはなり得ないからだ。もちろんそのモノの概ねの方向性は同じ場合が多いし、物事には慎重になった方が多いこともたくさんある。結果として、先ほど言ったような空間的・客観的事実は変わらないのかもしれない。けれども、私達人間(というか私のような人間)が必要とするのは空間的・客観的事実なのではなく、そこに自分を投入させた主観的結果とそこで感じたことなので、モノを考えて満足するくらいなら、失敗してでも自分をまず投入させたいと思ってしまうのだ。

 

だから、ゆえに、結論は?と言われるとまた文章力がないのでうまく書けないのだけれど…

……自分が想像する、あるいは他人から得られる情報で満足してはならないししたくない、出来うる限り自分の全ての感覚機能を使ってこの世とこの人生を楽しみたい……

…ってことにしとこ。寝よう。