人生反省記Vol.2

馬鹿は馬鹿なりに。http://blogs.yahoo.co.jp/imutan813

部長

先日部活動の主将としての役目を終えた。

とても辛い一年だった。

私が部長をやりたくなかった理由は2つある。それはやり始める前も、やっている最中も、そしてやり終えた今も変わらない。

①リーダシップがない

②うまくない

一つ目はどうでもいい。面倒くさいからとかだれだれが嫌いだからとかそういうレベルの話と変わらないからだ。適性がないというのは一言で片づけると簡単なことだが私は物事をその一言で片づけたくない。向いていない人間だからこそできることがあるとこの一年で思ったことも多い。例えばリーダーシップなどあったら自分の方向性を見誤り突き進み続けるかもしれない。それが根拠を持った確固たる方向であれば構わないのかもしれないが、そんなものを持っている人間はそうそういない。そんなことをを自ら言う人間は大体が自分は適性がある"と思い込んで"いるだけで、そのずれた方向性を突き進み続ける性分を"リーダーシップがある"と勘違いしているだけであるように見える。そんなリーダーシップならいらない。

そういうわけで、今振り返るとリーダーシップがないことで無駄なプライドを持て余すこともなく活動できたと思うので、自分に対して後悔はない。むしろ、様々な人々に対して"適性がない"という一言で片づけるな、あるいは"適性がある"などと勘違いするなと言いたい。

 

二つ目はどうしようもなかった。ここまでサラサラと文章を書いてきてここで筆が全く動かなくなるくらい、どうしようもなかった。うまくなる努力を怠った自分が悪いと言ってしまえばそれで全てなのだが。もし部活が「中国研究会」だったならば、喜んで引き受けただろう。部活のトップでい続けようと勉強し続けただろう。もちろん楽器をうまくなりたくなかったわけじゃない。1,2年の時部活に対して気持ちがどうしても動かなくて。高校時代全くやってなかったから。経験年数も多くないし……何を言っても全て言い訳になるから言いたくない。いずれにせよ、自分が下手なのは分かっていたし、それが部長をやるにおいてずっとネックになるであろうことも分かっていた。

自分が部員だったら下手くそなトップにはついて行きたくないし、許せない。だからこそ嫌でしょうがなかった。他人に醒めた目で見られるのなんかどうでもよかった。自分の中で、下手くそな部長は嫌だった。だけど、自分しかいなかった。相談できる相手もいなかった。「人がいないからって安易に引き受けなくてもいいんじゃない?」「そんなにつらいならやめてもいいんじゃない?」外の人間には色々言われた。安易に引き受けたわけじゃない。”いい経験になりそう”くらいの気持ちで引き受けていたらやめていたと思う。つらいからって簡単にやめていいものじゃない。だけど、自分を犠牲にしてまでやるべきことなのか、ずっと問い続けていた。恥ずかしいことながら、他の同期に対して、羨ましいとか、ずるいとか考えてしまったことも何度もあった。好き勝手言う後輩たちに辟易したこともいくらでもあった。絶対にやめない、諦めないとは決めていたし、幸いなことにギブアップ寸前まで追い込まれたと感じたことはなかったけれど、慢性的に自分の無力さと存在意義を感じながら様々な仕事をしていたことに間違いはない。自分がいなくても部活は成り立つけど、エースが一人欠けたら大きな損失だから、大切にしないと。実力のある者は発言権があるけど、私はないのだから意見は恐らく正しくないだろうし、控えないと。それらの感情を自分の中で押し殺すほかなかったのは本当に辛かった。自分の気持ちにきちんと整理をつけて部活の運営に励んでいても、やっぱり悔しかった。今考えても悔しい。部長職を頑張るということは何か結果を得られることじゃない。誰かに褒められるわけでもない。尊敬されるわけでもない。どんなに陰で汗水を垂らして働いても、称えられるのはいつも表舞台で華々しく活躍する者たちだ。綺麗だね。かっこいいね。演奏会が終わり自分の周りが称えられる中、それは自分に向けられることはない。はじめから全て分かっていた。分かっていてそれでも引き受けた。だから誰を責めることもないけれど、だから尚更辛かった。

それでもやめないでなんとか乗り切ってみせようと思えたのは、半分くらいは自分の意地とプライドというものが一応あったからに違いない。それは素直に自分を褒めてあげたい。けれども、意地とプライドだけだったら恐らくどこかで気持ちが折れていたかもしれないとも思う。

残りの半分は、部員が楽しそうに演奏する様子や、出来ていなかったところが出来るようになっていく様子を見られることだった。今回の演奏会でも、「ありがとう」と言われるよりも(そんな人はほとんどいなかったけどw)「たのしかった」と言われる方が嬉しかった。ああ、こんなに楽しそうに演奏するんだもんな、しょうがないよな。もっと楽しそうに演奏している姿見たいもんな。頑張ってみるか。って嘘みたいな話だけど本当。

当たり前だけど音楽の楽しみは演奏することだけではなく、誰かが演奏している姿を見ることにもある。私は他人に対して羨望の感情が強くなってしまった時、そのことを忘れてしまっていたのかもしれない。一番大切な、音楽が好きという気持ち。誰かが楽しそうに演奏するその姿を間近で見られることも、一つの楽しみであり音楽に対して感じる幸せの一つなんだなと教えてくれたし、部長としての大きな原動力となった。

これからも個人的に音楽は何らかの形で続けると思うけれど、社会人になったら団体に所属せず個人で続ける可能性の方が高いと思う。でももし、団体に所属したとしても、あるいは個人で続けるにしても、"楽しむ"こと、"好き"であることを一番大事に音楽に関わりたい。それが音楽に対する一番の私のできる恩返しだし、周りの人にも自然とそれが伝わるものだと自分が身をもって体感したからだ。

そんな大切なことに気付かせてくれた素敵な仲間たちと、素敵な音楽に感謝して。

1年間ありがとう。

 

                   2017.12.10定期演奏会の"たなばた"をBGMに

実力のない者は結局のところ実力のあるものに振り回され、発言権もない。あったとしても、実力のある者の次の意見として捉えられる。実力がないから発言における優先順位が当然低くなる。

自分の周りにいる、実力はあるけれど常識のない人々を見ていると本当にそう思う。自由にやってくれるよなぁと。でも彼らは咎められない。実力があるから。彼らは褒められる。実力があるから。彼らの周りで振り回されるものは褒められもしない。実力がないから。

 

悔しくてしょうがない。

好き勝手にやっても実力があれば許されていいのか?いいのだ。世の中そういうもんだから。そういう人々によって世の中は回っているから。

決して彼らが悪いわけじゃない。たぶん。悪いのはどちらかというと現実を受け入れられていないこちら側なのかもしれない。たぶん。

 

そういうわけで、溜まったストレスの吐け口を最近勉強に向けるようにしている。

実力が欲しいから。

やりたくないことはやらない。やりたいことはやる。そうなるためには(別にそうなりたいからというわけじゃないけど)、実力のある人間にならなければならないから。少しでも。

なせばなる、なさねばならぬ何事も、ですね。

 

大学入学からここ最近まで自分を構成する感情を今まで「好奇心:劣等感=3:2」位だと思って生きてきたけれど、最近はもうそれが逆転して「好奇心:劣等感=2:3」になりつつある。当然のことながら、ネガティブな感情が上昇すればそれだけ暗い人間になる。今までは、劣等感は強くとも好奇心がそれを上回っているから何とかなるだろうと思っていたが、今は加齢によるものなのか季節性なのか人生への焦りなのか好奇心が前に比べてそれほどなくなったように感じる。現実的になったと言い換えてもいいのかもしれない。あるいは、自分が色々な経験に慣れてきて好奇心を抱くものへの閾値が上がりすぎているのかもしれない。

こんなにも自分に自信がなくなってしまったのはいつからだろう。自分に自信のあった過去に戻りたい。なんとかなると思っていたし自分は結構やれてる方だと思っていたはずなのに。

 

とにかく、今のままでは陰気くさい人間が更に陰気くさくなってしまいそうなので、劣等感を少しでも晴らすべく勉強がんばろう、という自分への理由づけメッセージとしての文章を書きたかった。CBT8割取ろうね。

ザ・ノンフィクション

試験前になると、自分の中で勉強以外にハマりだすことがある。それが意外と試験後も趣味や嗜好として定着する事も多いので息抜きに許すようにしているのだけれど、そんなハマりのひとつが“ドキュメンタリー番組だ。
その中でも、私が好きなドキュメンタリー番組は“ザ・ノンフィクション“と、”ドキュメント72時間“。それから、バラエティ色がちょっと強いけど”クレイジージャーニー“。クローズアップ現代とかも好きだけど、ザ・ノンフィクションは民放だけあって(?)題材が良い意味でエグくて興味を引かれるものが多い。
さて先日10/15、10/22の2週連続のテーマは「人殺しの息子と呼ばれて」。
どこぞの人殺しかなと思い見始めたら、舞台は福岡県北九州市北九州市の殺人事件と言ったら…まさかねえ、と思っていたら、本当に、「北九州監禁殺人事件」の松永太と緒方純子の息子だった。
この事件には元々関心があり、Wikipediaも数回読んだし、5年ほど前に事件のルポタージュ「消された家族」を読んだこともあった。このルポタージュはかなり衝撃的で、当時の自分に精神医学について興味を深く抱かせるものとなった。そもそも、読了後しばらくは本当に気味が悪くて本の表紙を見るのすらゾッとするくらいだった。
主犯の間に子供がいたのは知っていたが、まさか自分と同い年とは思わなかった。そして、彼が中卒にもかかわらず(というのは語弊があるけれど)非常に多様なボキャブラリーを用い賢く魅力的な話し方をすることに驚いた。
おそらく松永太という男もそうだったのだろう。サイコパスというのは時に非常に他人を惹きつける魅力を持つ者も多いという。
そして緒方純子からの手紙。残虐な殺人を起こした者の書いた手紙とは思えなかった。緒方が死刑ではなく無期懲役になったその大きな理由「洗脳」がここまで純粋で愛情あふれる様に見える人間を殺人鬼にしてしまうのか…。複雑な気持ちになった。
そして、幼少期から虐待を受け、9歳以後全く親としての機能を果たせなかった両親を持つ子供にしては非常に人格者で、愛情も持っていて、考えもしっかりしている息子に感動すら覚えた。同い年で結婚もし、苦労もあるものの正社員として働いている。自分が殺人者の息子である現実に向き合い、両親にも面会に行っている。更には、自分の中に流れる両親の血にも冷静に向き合っている(自分がいつか同じようなことをしてしまうのではないか、と悲観的にではあるが冷静だと思う)。
本当に強い人間だと思った。
そんな風に彼の話ぶりや生き様に感銘を受けること自体があるいは彼の生まれもった「洗脳」の能力によるものなのかもしれないが。
それでも、自分の定められた運命から逃げることなく、真っ向から批判をするものに立ち向かうべく今回ザ・ノンフィクションに出演することを決意した彼に、感銘を覚えずにいられるだろうか?
加害者の家族という難しい境遇の人間を、決して騒ぎ立てることなく静かに取り上げたこの番組とフジテレビは賢明な判断だったと思う。もしこれがワイドショーでお茶の間に放出されていたらと思うと恐怖すら感じる。
彼のような人間を社会はどう扱う(見守る?手助けする?)べきか、大きな問題提起にもなったのではないだろうか。以前読んだ神戸の少年Aの更生記録を思い出し、その後「絶歌」も思い出した(読んでないけど)。
とにかく色々と考えさせられる回だった。

女は顔だなぁ

女性は顔だ。

男性は顔だとは一概には言えないが、女性は顔であると一概にして言える。

これは恋愛についてではない。恋愛であれば逆に男性も女性も顔を重視する人もしない人もいるので、一概には言えなくなる。人を好きになるときの大きな条件としてもちろん顔はあるけれど、言うほど顔の良しあしが恋人の有無に関係するとは、ある程度までは思えない。

 

社会的な成功を修める女性はみな美人のような気がする。

とりあえず何をしている活躍する女性でも、「美人〇〇」がつくことは必須に近い。この場合美人のハードルが下がっていることも否めないが、少なくとも身だしなみの整っている女であることは間違いない。

美人でない女性が社会的に成功することは非常に難しい。男性は別にイケメンでなくたって社会的に成功しているのに。何故なのだろう?

そこには根本的に、2つの理由があるのだと思う。

①ひとはみな美人が好き。美人であるだけでまず好き。

②男性の方が基本的に物事を極める人が多い。

①はもうどうしようもない問題で、男はもちろん女だって美人が好きだ。好みはあれど、美人な店員さんに料理を運んでもらって不快になる人間はそういないが、ブスが料理を運ぶことに不快感を示す人間は一定数いる。人間の本能として、整った顔をもつ人間に快を、そうでない人間に不快をしめすようにできているんじゃないかと思う。要するに、同じようなことを美人とブスが同時にやっていたら、誰だって美人がやったことにより快を覚えるだろうということだ。

②これもどうしようもないかはともかく事実だろう。物事を極めて頂点に立つ人間は男性が多い。多分脳の仕組みがそうできているんじゃないかと思う。いわゆる天才肌というか。逆に、何でもできるタイプの秀才は女性に多い気がする。勉強も出来て、運動も出来て、ピアノも上手で、人当たりもよい、しかも美人でスタイルもいい。個人的な感想ではあるが、こういうタイプは出会ってきた中では女性が多かった。けれども、彼女らは何においてもトップレベルではあるがトップではなく、次点位につくことが多かった。女性の脳は子育てやらなにやら色々なことに気を配る必要があるためそういう風に脳が発達したという話はどこかで耳にしたことがありそうだ。

そんなわけで、女性の方が、何でもできて何でも持っているタイプが多かったように思う。①、②が組み合わさると、女は顔だな~となるわけである。

もちろんこれは顔の整っていない私の僻み?偏見?が混じっているのかもしれないが、そのような傾向はあるのではないだろうか?

そんなわけでコンプレックスがより強まるわけであった~完~

 

私の周りにはほんと顔もよくて頭もよくて優しい友人が多くて、更にいうなればみんなちょっとヘンだ。いわゆる女子大生みたいに友達とかれぴっぴと遊ぶ4年間というよりは、自分と向き合って自分に納得がいかなかったり、自分からすると高次元なことで悩んでいたりした。そして最終的にはなんやかんやで高学歴大学をご卒業されていくのである。は~コンプレックス。

忘備録

「事実」あるいは「現実」というのは、その事柄を含む映像、触感、匂い、音、時間でできた非常に曖昧な空間のようなもので、それらのただ一つがかけていても「事実」や「現実」とは厳密には言えない。

更に、そこにいる登場人物になってしまった時点でその空間を第三者的に見ることは出来ない。つまり、「事実」という空間を正確に第三者的に眺める手段というのは、あたかも世にいくつも転がっているように見えて一つもないのだ。

 

自分の頭の中にそういう考えが前から漠然とあって、言葉に表すことがうまく出来なかったのだけれど、ふと文字に起こせるくらいになったので忘れないうちに書いておこう。

何故この考えを記しておきたいと思うに至ったかと言えば、この考えが自分の中で一つの大きな観念として持てていると、自分の理想とする心に近づけると思ったからである。文才がないのでうまく表現できないが、もやもやとした頭の中を素直に文字に起こすと、こんな感じだ。

これがどんな風に活きるのかという点についても、漠然とこういう場合という例は思い浮かぶのだけれど、文字に起こすまで説得力のあるものにはならない。ただ、ここ数年、あるいは人生23年間を生きてきて、色々な経験をそれなりにしてきて、幾たびもこの考えにぶち当たった事は間違いない。

 

ここからは俗っぽく全く上の内容とは関係ないことになる。

私は、モノを考えてから行動するよりも、行動してからモノを考えることが多い(頭の悪い人間の典型例と言えばそう)。それには後付けかもしれないけれど一応の理由はあって、モノをいくら考えても、自分が考えるそのモノは自分が考えるその物事に過ぎないので事実や現実とは同じにはなり得ないからだ。もちろんそのモノの概ねの方向性は同じ場合が多いし、物事には慎重になった方が多いこともたくさんある。結果として、先ほど言ったような空間的・客観的事実は変わらないのかもしれない。けれども、私達人間(というか私のような人間)が必要とするのは空間的・客観的事実なのではなく、そこに自分を投入させた主観的結果とそこで感じたことなので、モノを考えて満足するくらいなら、失敗してでも自分をまず投入させたいと思ってしまうのだ。

 

だから、ゆえに、結論は?と言われるとまた文章力がないのでうまく書けないのだけれど…

……自分が想像する、あるいは他人から得られる情報で満足してはならないししたくない、出来うる限り自分の全ての感覚機能を使ってこの世とこの人生を楽しみたい……

…ってことにしとこ。寝よう。

試験前夜のがけっぷち映画論評

‪ひねくれてるからなのか、映画のラストが全部うまくいくハッピーエンドだと一気に萎える。君の名は。をみたときも最後で頼むから出会わないでくれってずっと願い続けてたけど出会っちゃったからそこで萎えた。

ジブリの好きなところは、ハッピーエンドだとしても一抹の寂しさや不安を残してるから印象的だし心に残るところなんだなってそのあと気付かされた。

何ならハッピーエンドじゃない映画の方が好きかもしれない。バッドエンドだけど、そこに一筋の光が見えている方がドラマを感じる。

人間らしさとかドラマって、ハッピーエンドや幸せからよりもバッドエンドや悲しみからの方が生まれやすいと思うんだよね。


そんなわけで、アジア中で大人気の君の名は。だけど、言うほどかなぁ〜 とずっと思ってる。なんか人間くささやドラマが全然なかったからピンとこなかったなぁ。

新海作品は良くも悪くも爽やかだよね。わたしは、そのフィクション臭い爽やかさが、リアリティを追求してる背景とミスマッチで好きじゃない。フィクションなら潔くフィクションを貫いて欲しいのに、妙に現実に寄せてきている辺りが嫌い。


日常系アニメが嫌いなのも同じ理由だと思う。現実にいるわけがない男の理想と欲望の塊みたいなテンプレ美少女たちが、あたかも目の前の現実世界に生きているかのような描写が嫌い。


人間くさいきったない映画のおすすめがあればぜひ教えてください。

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周りの世渡りのうまい友達(やはりこういうタイプは女性が多い)を見てると色々な複雑な感情を抱くけど、そいつらの犠牲を被ってるぶんそいつらよりはせめて楽しいことしないとって強く思って生きてる。日々強く思って生きていることってそれくらいかもしれない。

まあ人生って別に他人と比較するもんじゃないんだろうけど、社会で生きていく上で他人を意識しないなんて無理でしょ。

自分が圧倒的に楽しんで楽しんで相対的に他人を蹴落とせたらいいなと思う。不愉快な意味でではなく… 自己満足の世界で。


と疲れたのでちょっとだけ。